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2015年1月22日 (木)

「敬語」が日本人の精神に与える影響について

日本語には、敬語とタメ口という二種類の言葉があり、さらに立場によって使ってよい言葉が限られる。この豊かすぎる言語文化のために、日本人には、人との関係の種類が多様にありすぎる。友達・内輪と、外の人間関係。それらが言葉の種類によって、分断される。人間関係が固定化され、たとえば敬語で話す間柄の人とは、親しいという感覚を持ちにくい。

もちろん英語圏でも、恋人・家族・親友と、知りあい・同僚、そしてお店の人など、関係性の違いが当然ある。しかしそれらの間に、言葉の種類の違い、という分断は基本的にない。子供が大人と普段と同じ言葉で話すことができるし、大人と世間話だってできる。当然、会議もスピーチも、Show & Tellも、普段と同じ言葉だ。

日本人はその点、世代の違う人との交流は、大人が話しかけ、子供が返事をする、という図式になりがちだ。世間話はほとんどありえない。そして中学以降は学年が違うだけで、「友達」にはなれないという文化が、卒業まで続く。
そして、会議やスピーチでは、普段の言葉では話せない。

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以前から、敬語という文化に戸惑うことが多かった。
後輩にタメ口でしゃべるのが、偉そうにしているように思えて、高2の時悩んだ。結局後輩にも丁寧語(=ですます調)で話していた(周囲にも後輩に丁寧語でしゃべる人はいた)。
社会人になってからも、敬語とタメ口の相手が混在する席での会話で、使い分けが難しかったり、敬語で話す相手とは距離が縮まらない感覚があったりと、ややこしさを感じることは多々あった。

敬語というのは、フォーマルな話し方である。人との関係が、公的で、社交辞令的な感じで、沢山話していても、本当に親しいのではないような気持になってしまう。寂しさ、孤独を生み出す言語である。

日本人は、子供の時から親や友達とは友達言葉(タメ口)でしゃべり、先生とは敬語で話すように教えられる(先生ともタメ口で話す子もいるが)。そして中学生から突然、今まで友達言葉でしゃべっていた上の学年の友達とも、ですます調でしゃべる文化に突入する。以後、同学年の友人と下級生以外とは、敬語で話すようになり、学校外では基本的に敬語で話すようになっていく。そして社会人になると、同年齢の親しい人か、年下である程度親しい人と家族以外とは、基本的に敬語で話す生活になる。

その事を、日本人は意識することなく生きている。(何十年も英語を勉強している人でも、英語には敬語とタメ口という区別がない、という事に気づいていない事すらある。)しかし、日本以外の言語と比較してみると、日本語とは全く違う状況にある事に気づく。

多くの言語には、日本語ほどのはっきりとした敬語がないという。それゆえ日本以外の人たちは、子供の頃からしゃべっていたのと同じ言葉で、誰とでもしゃべる事ができる。例えば、お母さんにも大統領にも、基本的に同じ言葉で話せるという事だ。

そしてそれは、頭の中で考えている言葉と同じ言葉で、誰とでも話ができるという事でもある。(日本語は、頭の中で考えていることをそのまま言うと、「タメ口」になってしまう。)
「敬語」というかしこまった言葉にしないで、1種類の話し方で伝えられるということは、思うことを素直に表現しやすいだろうし、人間関係にも大きな違いが生まれるだろう。

ドイツ語のSieとDu,フランス語のvousとtuという二人称の使い分けが、日本でいう敬語とタメ口に近いのだろうか。たしかに、ドイツ人が「いつDuに切り替えるかで悩む」と書いてあるサイトもある。(「日本語・英語・中国語の敬語感覚の違い」が非常に興味深い。この中で、フランス人・ドイツ人がどう感じているかについても、事例が書かれている。)
とはいえ、ネイティブの人がどういった感覚で使い分けているか、例えば年齢の上下で言葉が変わるのか、といったことは、私にはわからない。
ただひとつ言えるのは、ここで相手によって変わるのは、二人称(あなた)の言葉と、相手が主語の動詞の形だけだという事だ。相手がSieでもDuでも、自分を主語にする言葉は一切変わらないという事だ。日本語のように、自分の行動も「です」「ます」に整えるような作業は発生しない。


なお、年齢の上下によって言葉が変わるのは日本だけではない。ベトナムでは、相手の年齢や、自分との年齢の関係によって、相手の二人称(あなた)が変わる。例えばおばあさん世代の二人称は、「バー」(漢字で書くと「婆」)である。例えば「カムオン(ありがとう)」と言う時にも、必ず「カムオンバー」と、二人称をつけるそうだ。

それらに気づいた時、日本人の特性や、人との関係性は、敬語という文化に大きく影響されていると思うようになった。もちろん、逆もいえる。相手との立場によって言葉が変わるのは、そういう文化があるからこそともいえる。そして、敬語という文化をなくすことはおかしいし、なくすべきだとも思わないけれど、それでも無意識のうちに敬語からの影響を受けていることは確かで、それを知ることによって、何となく感じている悩みを違う角度から見られるようになると思うのだ。

<概要>
■日本人の行動に、敬語が与える影響はたくさんある。例えば、次のようなこと。(以下の分中で、他の例も挙げています。)
①人間関係の固定化 (お店の店員さんと客が、フラットな関係で話をすることは少ない。そこから仲良くなることも、バーなど以外ではない。)
②知らない人に話しかけようとしない。 (思うことを、いちいちフォーマルな形に変換する言語だと、気軽に話しかけにくくなるのでは。)
③子供のころから使っているのとは違う言葉でしゃべるため、率直に物を言いにくい。
④外国人に話しかけられた時、英語がしゃべれない場合、日本語で言えばいい、という発想になりにくい。(私の経験では、ベトナム・韓国・台湾・マレーシアでは、何か尋ねた相手が英語を話さない場合、現地の言葉で返事をされることがよくあった。)

■では私たちはどうすればいいのか。
①「敬語」を堅苦しくとらえるのをやめて、「普通の話し方」と考える。
②タメ口でないと友達になれないという思い込みをもし持っているなら、捨てたほうがいい。
③同世代や年下には、ですます調とタメ口を、混ぜて使うのも良い。年上の場合は、場合による。親しくなってから、関係性に応じて、タメ口を混ぜても良いだろう。相手に「敬語じゃなくてもいいですか」と尋ねてからにするのも良い。どちらにしても、無理にタメ口まじりにする必要もない。
④敬語がない文化とは、当然違う状況になる。それは、そういうものだと思っておこう。大事なのは、心が通いあうかどうかだ。

タメ口かどうかを、親しさの基準にするのは、やめた方が得だと思う。(タメ口を親しさの基準にするのは、若い世代に多い考えだと、何かで読んだことがある。)人との関係性を、もっと柔軟に考える。その相手との適切な言葉を話すのが一番だ。
周りを振り返っても、タメ口で話している友達だからといって、いい関係が続いているとは限らない。(友人を利用していただけだったんじゃないかな、というような人もいる。)

学生時代、敬語で話す相手は、「友達」とは呼べない人だった。たとえば、1歳上でも、「先輩」であって友人ではなかった。その感覚は、大人になってもひきずっていると、敬語で話す相手を友人と思うことができない。適切な言葉を話すことと、親しさとは、別の話だ。年上の人のことは、表だって「友人」と言うと失礼な場合もあるから、心の中で友人と思っておく(表だって言っていい場合ももちろんある)。年下の人のことは、表だって友人と呼んで差し支えない。中学入学以来、同学年以外は友達と呼べない文化につかってきたから、敬語で話す相手とは、取り繕った関係みたいに感じてしまうことがあるけれど、そんな感覚をいつまでも持っていると、人生損すると思う。大切なのは話の中身。話し方をタメ口にしないと仲良くなれないんじゃない。

下 記の<世代による敬語のとらえ方の違い>に詳しく書いたが、上の世代の「敬語で話すかどうかと、友達かどうかとの間には相関関係がない」という感覚を参考 にすると良さそうだ。
また、もし自分が外国人だったら、上記の相関関係は感じずに話しているだろう。
そうした、自分の固まった言語感覚を掘り起こす作業を してみるのも良いと思う。

こちらのブログ
のこの言葉が、私のヒントのひとつになった。
「私の感覚では、敬語は結局ひとつの表面的な記号に過ぎなくて、相手と自分の関係を決定するのは、敬語の存在じゃなくて、話し相手の態度だとか会話の内容だとか、状況だとか立場だとか...様々な要因だから....」

※自分がこう思っていても、相手が「タメ口じゃないと仲良くない」と思う文化圏の人という場合もある。その場その場のコミュニティに応じて、自分の話し方を合わせても良い。いずれにしても、自分が「ですます調をデフォルトにする関係で も親しくなれる」と考える事で、関係性を開いていける可能性が生まれると思う。自分がどう思うか次第で、人間関係のとらえ方は変わってくる。


(以下に詳細について書いているが、まだきちんとまとめていないので、思いつくままに書き綴っただけの状態です。乱文ご容赦を。)

<相手との関係性に、話し方が縛られる>
例えば、敬語で話す時、人はその立場にふさわしい話し方に縛られる。例えば、客と店員は、対等な立場ではない事を前提とした話し方をする。例えば、「教えてあげま す」は文法的には正しくとも、店員から客に言うことはありえない。また、どんなに親しくなっても、年齢の違いがある程度あれば、片方がタメ口でももう片 方が敬語という、対等でない感じの言葉にならざるを得ない。相手との関係が、常に、「年齢差」「店員と客」などの関係性に縛られ、誰とでもフラットに話す事はできない。
日本語は、内容を伝える事に加えて、相手との距離感や相手への尊敬、他者への尊敬などを、常に織り交ぜて話さなければならない。高度でめんどくさい言語だと思う。
他民族が行きかう社会ではなかったからこそ、出来上がった、他者が入りづらい言語空間だろう。

<年齢が離れていると、友人と呼びにくいという寂しさ>
年齢が違う時点で、話し方に上下関係ができるのは、私にとって、居心地があまり良くない。自分がタメ口でも、相手がタメ口じゃないと、対等じゃない感じがする。私の場合、学生時代からそう感じていて、後輩にもタメ口でしゃべれなかった。偉そうにしてる気がして嫌だった。高校生の時、一つ上の先輩で、同じように後輩とも敬語でしゃべっている人がいた。それを見て私もそうしていた。その方が、偉そうにしている感じがしなくて話しやすかったからだ。(でも多くの人は下の学年の人にはタメ口で話していた所を見ると、そういう事で悩まない人が多いのだろうか。)

子供の頃から話していた言葉(タメ口・友達言葉)を使える相手は、家族以外だと、同学年以下の友達だけ。上級生は「先輩」であり、「友だち」と呼ぶのは失礼な感じがする。大人になっても、年上の人の事は、友人と呼びにくい。

片方がタメ口、片方が敬語。そこには言葉の上での上下関係が産まれざるを得ない。誰とでも対等に、フラットに話をするという事はできない言語なのだ。

でも、年上の人が、年下の人を「友人」と呼ぶのは良い。その場合、年下の人からは「友人」と呼ばれない可能性が高いが、それは気にする必要はない。日本文化がそういう文化だというだけ。「友人」に含まれるかどうか、突き詰めて考えない方がいい。

<会ったばかりの大人の話し方のデフォルトは、基本的には敬語。>
上記のような困難があるからといって、誰とでもタメ口で話せばいいというわけではない。
(ローラのタメ口は、ローラだからこそ許されるものだ。あれを他の人が真似たら、ただの非常識な人だ。とはいえローラが9歳から日本で暮らしていた事を考えると、なぜすべてタメ口なのか疑問だが。大人になってから日本に来たリリコさんだって、最初は敬語を知らなかったそうだけれど、今ではきちんとした敬語だし。タメ口キャラの芸能人に日本語を壊されたくない。)

初対面なのにタメ口で話されるとやはり、違和感を感じる(この辺りは、人によって感覚が違うようだ。初対面でも、敬語なんて堅苦しいから嫌だという人もいる。そういう人は、自分だけタメ口にするならいいのだが、こちらにまでタメ口で話してほしいと言われた時には面食らった。)
また、外国の人から日本語で道を聞かれて、タメ口で案内している日本人を見た時にも違和感を感じた。英語では誰とでもタメ口なのだから、自分もそれと同じでいいだろうと思ったのだろうか。確かによく字幕では、外国人の言葉はタメ口で翻訳される。しかしそもそも敬語という概念がないだけの事であり、日本のタメ口のような、親しみをこめた(もしくは馴れ馴れしい)言葉で話しているのとは違うのだ。日本語としては、やはり初対面の人にタメ口で道案内をするのは奇妙なことだ。

知らない人どうしが話をする時のデフォルトは、敬語だと思う。とはいえ、高齢の方の中には、最初から友達言葉の人もいるし、地方によっても文化が違うので一概には言えないが。少なくとも若い世代は、まずは敬語だろう。最初だけ敬語で話して、すぐにタメ口まじりにするという方法もある。どのぐらいでそうするかは、人それぞれだ。ちなみに方言だと、敬語がそもそもない事もあるようだ。博多弁の友人は、「博多弁に敬語はないので、敬語でしゃべろうとすると共通語になる。共通語でしゃべると、冷たい感じがすると言われてしまう」と言っていたな。

<敬語が持つ複数の意味 ~礼儀かよそよそしさか~>
敬語を使うのは、それが丁寧さ・尊敬を表し、相手との当たり前の言葉だからである。
しかし一方で、敬語には、相手との距離感・よそよそしさを感じさせる面がある。
親しければ敬語を使わない、という感覚は逆に、敬語での会話を、社交辞令的なものに感じさせてしまう。

例えば、職場の食堂で会えば一緒にご飯を食べつつ敬語で話す相手や、職場の給湯室で敬語でちょっと立ち話をする相手との関係が、私にとっては、その場限りのものだと思えて寂しい。でもこれらがもし全部英語だったらと考えると、そういう風に寂しくは感じないように思える。
タメ口で話す相手か、敬語で話す相手か、という事をいちいち意識しなくて済むという事は、私にとってとても快適に思える。どの相手とも、基本的にフラットに話せるのは、うらやましい。日本語は、言葉に、伝える内容以外の余計な要素が、つきすぎると思う。

多くの、若い日本人にとっては、プライベートで会って、なおかつお互いにタメ口で話せる相手しか、友人と思えないのではないだろうか。元々日本語の友人という言葉に、「同世代で親しい人」という意味合いが含まれているのだろう。年上の人の事は、友人と呼ぶと失礼な感じがしてしまう。
それゆえ、職場でしか話さない相手は、プライベートな関係ではない、という事を、ことさらに意識してしまう。本当の仲のいい人間関係ではないように思えてしまうのだ。
でも本当は、職場だって、自分の居場所の一つだ。そこで話をする職場の人々との関係も、その場でしか話さないとしても、大切な人間関係の一つだ。私的な関係か、職場での関係かという事を、ことさらに意識しない方が、快適で居られる。
また、プライベートでも会っている友人でも、自分がタメ口まじりで、相手がずっと年下で敬語だと、友人とは考えづらい事がある。寂しい。本当はそういう関係だって、友人と呼びたい。

<世代による敬語のとらえ方の違い>
敬語を使うかどうかの判断基準として、親しさに重きを置くのは、若い世代に多い考えなのだそうだ(どこで読んだか忘れてしまった)。

たしかに、かなり上の世代になると、奥さんが夫にですます調で話していることがある。(敬語で話す相手と性的な関係を持つことができるというのが、私から見ると驚きなのだが、その人にとって夫とも敬語で話すことがデフォルトであれば、問題ないのだろう。)

以前両親に、友人と敬語で話すかどうか聞いてみたことがある。

父は、ほぼ同年齢のかなり親しい職場の友人とも、敬語で話すと言っていた。

母 は、周りの人とですます調で話す事を、ごく当たり前のことと捉えている。その一方で仲のいい人たちと、友達言葉で話しているが、それを「友達言葉」と認識 していないようだ。「○○さんとは友達言葉で話してる?」と聞いた時には、「そんなくだけた言葉で話してるわけではないよ」という風な事を言っていたが、 実際には、10歳年上の親しい人とも、「○○さん、元気にしてる?」という感じで話す。それを友達言葉と言うのだが、母にとっての「友だち言葉」はもっと くだけた言葉なのだろうか(って、一体どんな・・・?)
また逆に、「××さんとは年が離れてるけど、敬語で話してるの?」と聞いたら、「そんなか しこまったしゃべり方しないわよ。〝○○ですか?”って普通に話すわよ」と言う。それを敬語と言うのだが、おそらく母にとっての敬語は『謙譲語』『尊敬 語』で、「ですます調」は単なる普通の話し方なのだろう。母の中では、「ですます調」と「友達言葉」は特にくっきりと分けることなく、共存しているように 見える。そのぐらいの方が、悩まずに話せそうだ。私が悩みすぎなのか。

また、吉沢久子さんという年配の方のエッセイで、敬語で話す間柄の人の事も、友人と呼んでいる例を見て、やはりタメ口でないと友人と思えない、というのは若い世代の感覚なのだろうかと思った。

<人によって敬語に対する感覚が違う事による、ややこしさ>
ところで、どれぐらい親しい相手とタメ口でしゃべるかというのは、人によっても、コミュニティによっても、大きく違う。そしてそれも、悩みの種となる。

例えば田舎に引っ越したら、初対面からタメ口の人が多くて戸惑ったという声もあるし、保育園のお母さんどうしだと、タメ口で話しかけられたらタメ口で返すべきか、相手が年上の場合には敬語か、年上と思っているというのは却って失礼か、などと悩むことがあるそうだ。

また、友達の中に、あまり話したことのない人がいる時などは、同じ言語で話せない状態になる。この、同じ場にいながら、敬語とタメ口を混ぜてしゃべるというのが、私はちょっと苦手だ。タメ口だけの時とは、違う脳内状況になる感じがする。職場でも、タメ口の相手と敬語の相手が混在する場では、基本敬語になるのでまだ話しやすい。それが、上記の場面だと、基本タメ口なのに、時々敬語というのが、困惑する。

英語みたいに、全部同じ話し方ができたらすごく楽になるのに。
さらには、敬語で話すのが普通だからと、敬語だけでしゃべっていたら、堅苦しい人だと思われる場合もある。
敬語は、大人としてのデフォルトの言葉であるだけでなく、相手との距離感や丁寧さの要素も含むので、とてもやっかいだ。タメ口で話すことが、フレンドリーと思われる事もあれば、なれなれしいと思われる事もある。
そういった要素抜きに話せる言語は、内容を伝える事のみに集中できて、うらやましい。

私は日本が大好きなのに、これらの敬語問題ゆえ、生まれ変わったら敬語がない国に生まれたい、と感じる。
でも、せっかくいい国に住んでるのに、そんな事で孤独に感じるなんてもったいない。だから、こうして思う事悩む事を色々書きながらも、大人の話し方は敬語がデフォルト、と割り切って、そんなことを気にしないでいられるようになりたい。いつか、私若いころにあんなことで悩んでたんだなーって思い出すくらいになりたい。今はまだその途中。

<敬語とどう付き合って行くか>
日本語では、相手との関係性に応じて、適切な話し方がある。店員さんの言葉、年上の人向けの言葉、初対面のひととの言葉。
それぞれが、その場面でのデフォルトである。むりにタメ口にすると、「文法的には合っているが、失礼な感じ」になってしまう。
ですます調がその相手との適切な話し方であるならば、それで良いのだ。敬語がある言語で生活している以上、誰とでも同じ話し方ができる言語文化を望む事は、ないものねだりである。それを続けている限り、満足できない事になってしまう。この言語は、こういうものだと受け入れて、意識しないでいく事。そうした方が、自分が心地よく生きていけるから。
前述のブログで、
「私の感覚では
敬語は結局ひとつの表面的な記号に過ぎなくて
相手と自分の関係を決定するのは
敬語の存在じゃなくて
話し相手の態度だとか会話の内容だとか
状況だとか立場だとか...様々な要因だから....」
という文章があった。この言葉は、私が敬語とタメ口を捉える上で、とても力になりそうだ。
覚えておきたい。


<その他、日本人の感覚が敬語から受けている影響の数々>
・子供がマイクを向けられて、「夏休みどこに行きたい?」とか聞かれた時、大抵の子供はおずおずとした感じでしゃべる。「・・・海行きたい(ぼそぼそ)」とか。外国の子供の映像を見ていると、堂々としゃべってるなぁと感じる事がよくある。知らない人にマイクを向けられて緊張しているというのもあるのだが、この相手にそういう話し方でいいのかがわからないという、困惑もあるのではないか。

・知らない人とあまりしゃべらない文化。敬語というかしこまった言葉では、くつろげないからだろう。旅先で知らない人と一緒に旅をすることは、外国旅行でなければまずない。隣り合った人と気軽に話す人、街中で気軽にテーブルを囲んでお茶を飲む人、そんな風景は、日本ではあまりない。一生、子供時代と同じくつろいだ言葉でしゃべれる言語だったら、気軽に色んな人と話せる文化になっていただろうし、人との距離感が全く違ったものになっていただろう。

・スピーチが苦手。人前でしゃべること自体がもちろん緊張の元なのだが、例えばアメリカ人は、子供のときから使っている言語で、スピーチをするのだ。そうなると、しゃべりやすさは随分変わるだろう。

・デモ行進への心理的なハードルが高い。社会人は基本的にですます調でしゃべるが、デモ行進は「○○だ」「○○はやめろ」といった、普段なら言わない言葉を大声でいう事になる。これがもし、普段から使っている通りの表現(「Don't ○○」とか)だったら、と想像してみると、ずっと言いやすくなるでしょう?

・敬語でしゃべる時は、相手との適切な関係に縛られる。だから例えば、『世界婚活』に出ていたイタリアの例のように、銀行の窓口で相談していて、「続きはランチでも食べながらどう?」なんて誘われて、後々その人と結婚、なんていう事はありえない。客と従業員は、対等な関係ではない事を前提にした話し方をしており、それを崩すことはありえないのだ。(言語だけでなく文化的な違いもあるが、その文化的な違い自体も「適切な言語を話さなければならない」という縛りによって、保たれている部分も大きいだろう。)

・日本の場合、学生時代の同学年以外とは、基本的に敬語で話し始める。それは恋愛を始める上で大きなハンディである。敬語で話す時、人はその相手との適切な話し方・適切な関 係性に縛られる。公的な話し方をしている間柄で、私的な「恋愛」という関係を想起することは、難しくなる。ましてやそこからおつきあいの関係に入っていく ことは、なおさら難しい。付き合っている時、セックスしている時、大概の人はタメ口で話すだろう。敬語というかしこまった言語で話す関係と、タメ口で話す 恋愛関係とには、隔たりがある。敬語で話しながら、恋愛感情を抱くことは、非常にむずかしい。

周囲を見ていると、学生時代に出会った人 か、職場の同期と結婚した人が非常に多い。同期の場合、同期会で会う機会があるのも事実だが、それ以上に、はじめからタメ口で話せる相手だからこそ、恋愛 という私的な関係を思い描いたり、デートに誘ったりがしやすくなるのではないだろうか。

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